がくバカ日誌

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【歴史ネタ】大政奉還を人物から考える!〜英雄坂本龍馬の人物像と、帝にだけは弱いリアリスト徳川慶喜〜

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皆さんこんにちはがくです。私は公言しているとおり歴史が大好きです。

専門書から歴史本まで様々読んでいろいろ考えている時間が幸せだったりします。また、実際に現場に足を運ぶのも大好きです。夏休みも大政奉還の現場であった二条城に訪れてみました

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そんな趣味を生かして、今日はいつものブログに比べてかなり硬めな文章(論文調?)で記事を書いてみたので、歴史好きな方は是非読んでみてください!テーマは大政奉還と人物評価です。

 

 はじめに

 一般的に大政奉還とは武力での倒幕を目論む薩摩藩や長州藩に対して内乱を避けるための平和的解決策だったとイメージされているのではないだろうか。成立過程も土佐藩の後藤象二郎が坂本龍馬から大政奉還を提言され、感銘を受けたことにより藩論とするため奔走し実現。その上で土佐藩から建白書が提出され慶喜がこれを採用し大政奉還を行ったというようなものが通説とされ多くの人がそのようなイメージを持っていると考えられる。大きく言えば戦争回避のために英雄たちが努力をした賜物であるかのような印象を多くの人が持っているのではないだろうか。その他にも大政奉還を単なる江戸時代の終焉とする捉え方であったり、眼前の敵と戦わずして政権を返上した慶喜への低い評価等、単純な見方による大政奉還の評価が多いのではないかと考えている。

 大政奉還というのは間違いなく上記に記したような単純なものではなく、様々なことが複雑に絡み合った政争の一つであろう。政治というのは時の利害関係や各人物の思惑などが交錯し進んでいくことは歴史が証明する今も変わらぬ普遍の原理である。よって政争の中で藩論が一つで皆でその方向を向いていたり、利害関係なしに平和をただ夢見ていることなどは到底考えられない。であるから大政奉還は、単純な幕府の終焉とその物語などではないのである。ここでは、大政奉還について人物を中心に考えてみることでどのような思惑で行われたのか、その後の歴史にどのような影響を及ぼすのかについて考えていきたい。

大政奉還の過程

 幕末の初め開国や通商など山積する問題により国論が二分する状況の中、混乱を避けるため幕府は公武合体政策を採り大政委任の確認などを朝廷に要求し、幕府権力の再強化を目指したのである。一方で、このころから越前藩の横井小楠や勝海舟などの幕臣の一部には大政奉還的な政策(朝廷に政権を返上するという趣旨の政策)を採るべきとの考えが存在していた。しかし当時幕府は公武合体を推し進めたため、実現することはなかった。

 慶応年間に入り徳川慶喜が将軍職に就任したころから参預会議や四侯会議の失敗によって薩摩藩は慶喜を含めた諸侯での合議路線を断念していく。そこに長州藩も加わり武力倒幕へと傾倒していった。このような状況の中で土佐藩は後藤象二郎を中心に大政奉還を藩論とすることを目指した。そこに薩摩藩の小松帯刀らも同調し慶応3(1867)年6月22日に薩土盟約が結ばれた。しかし土佐に帰国した後藤は前藩主山内容堂から大政奉還を藩論とすることには同意が得られたものの、薩土盟約であった土佐藩の上京出兵と将軍職廃止を建白書に明記することは認められなかった。そのため長州藩などとの武力倒幕路線も維持する薩摩藩との間に軋轢が生じ薩土盟約は9月7日に解消された。その結果土佐藩は大政奉還の建白書を土佐藩主山内豊信を通じ単独で10月3日に提出した。

 土佐藩からの建白を受けて徳川慶喜は10月13日在京の40藩重臣を京都・二条城に集め大政奉還を行うことを告げた。翌10月14日には「大政奉還上表」を朝廷に提出し受理を求めた。これに土佐藩の後藤や薩摩藩の小松らが強く働きかけ、これにより翌15日大政奉還の勅許が決定。慶喜に大政奉還勅許の沙汰書を授けられ、大政奉還が成立した。

 大政奉還上表の同日(10月14日)に討幕の密勅(偽勅の疑いあり)を得ていた討幕派であったが大政奉還によって大義名分を失った。加えて慶喜は政権を返上したものの将軍職は辞しておらず武家の棟梁としての地位は依然として保ち続けていた。そのため薩長両藩は大規模な軍事増強を図り圧力を強めていく。こうした動きをかわす為慶喜は10月24日に征夷大将軍辞職も朝廷に申し出た。しかしながら、慶喜が将軍職を辞しても朝廷に政権運営能力は無く外交権などは旧幕府体制に頼らざるをえなかった。そのため依然として徳川慶喜は国内において大きな権力を掌握していたといってよいだろう。そのような中で会津藩や桑名藩、幕臣などを中心に大制委任を再び求める動きも広まっていった。

 こうした状況下で薩長両藩を中心とした倒幕派は公儀政体派の土佐藩なども巻き込み再び出兵計画を練ることとなり、王政復古のクーデターへとつながっていくのである。

坂本龍馬‐どの程度関わっていたのか‐

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 大政奉還実現において今日、多くの人がキーマンだと思っているのが坂本龍馬ではないだろうか。大政奉還の考え方を後藤に説いたのが坂本でそれによって土佐藩が建白書提出に進んでいくという説明の仕方は今では高校における受験日本史などでも通説となっているだろう。しかし坂本がどの程度の役割を果たしたかどうかは不明であり、英雄的活躍の多くは後の時代の脚色であるといっても間違いないだろう。そこでここでは存在の信憑性が疑われる船中八策などには触れず坂本と大政奉還について考えていこうと思う。

 まず一つ目のポイントとしては坂本が大政奉還の考えをどのような方向で考えていたかである。前提として坂本が大政奉還の考えを従来から持っていたということは『西南紀行』や勝海舟の談話から推察ができるであろう。その上で坂本が大政奉還を国外からの脅威がある中で国内での戦争というものを避けるための策としてある程度捉えていたということは認めてもよいと考えられる。しかし注意したいのはそれは単なる平和主義ではないだろう。ここで注目したい点は二つある。土佐藩の人間としての坂本と従来のイメージとは異なる最終手段として戦争を辞さない姿勢を持つ坂本である。まず当時の土佐藩を考えるとこのまま武力倒幕が進めば薩長に対して新政府の中で土佐が置いていかれるのは必然だっただろう。武力倒幕後の権力バランスで優位に立つには確実に金と軍事力を保持しそれを倒幕において行使したものであるのが明らかであるからだ。さらには藩の実権を握る山内容堂は武力倒幕に加担する気などなかったと考えられる。そうした中で土佐藩が新たな時代で一定程度力を持つことができるのは大政奉還による公儀政体の樹立だと考えたのではないだろうか。また、坂本が平和か戦争かなどという単純な図式で大政奉還を唱えていない事も述べておきたい。前述した通り坂本は当時の様々な状況を鑑みたときに大政奉還を行うことがベストな選択肢だと考えていただろう。しかし、幕府がそれに応じなければ新時代を作るために武力を使うことも最終手段として辞さない考えを持っていたことも当時の資料を見れば明らかだ。また幕府と軍事衝突の想定を行い、幕府に対して朝廷は直属の軍を保持していないことから烏合の衆での戦争突入となり幕府方有利に戦闘が進むことをこの時点で予想をした上で大政奉還論者だったとも考えて良いのではないか。大政奉還後のことではあるが坂本は幕府方との戦争に対してそのように考えを述べている(「男爵安保清康自叙伝」)為、大政奉還以前も同様に考えていた可能性が考えられるのではないか。

 二つ目のポイントとしては坂本が後藤に対して大政奉還を説いたことが事実であるかということである。これは後藤本人の回顧録等では直接的に提言に触れられているのは見られず明治30(1897)年に陸奥宗光が以下のように伝えているのが根拠であろう。「本に至りては一方に於ては薩長土の間に蟠りたる恩怨を融解せしめて幕府に対抗する一大勢力を起こさんとすると同時に、直ちに幕府の内閣につき平和無事の間に政権を京都に奉還せしめ、幕府をして諸侯を率いて朝廷に朝し事実に於て太政大臣たらしめ名に於て諸侯を平等の臣族たらしめ、以て無血の革命を遂げんと企てぬ。彼れ固より土佐藩の一浪士のみ、声望、以て幕府を動かすに足らざる也。而して彼は此事を行うに方りて後藤こそ最も適当の人物にして其の沈重の態度、其壮快の弁、其大事を軽視するの大胆、而して幕府の親頼を有する容堂公の寵信を得たる、皆な他に求むべからざる資格なるを見て、其競輪を後藤に説くや、彼は何の躊躇する所なく、坂本の説を容れ、進んで之を慶喜に説かんとするに至りぬ。」(『後藤伯』)とある。以上から坂本が後藤に進言したことは否定はできないが後藤がどの時期に大政奉還の主張を自身の中で採用したかは不明である以上、坂本の提言が直接結びついたことを断定はできないだろう。このようなことから考えると、後藤の大政奉還をめざすきっかけに一定程度坂本の関与があった可能性はあるが従来語られるような活躍を、坂本がしたということは考え難いといえる。

 徳川慶喜‐リアリストが現実を直視出来なかった一点‐ 

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 この章では大政奉還を決断した徳川慶喜について考えてみたい。慶喜というと15代将軍でありながら戦うことなく大政奉還してしまった将軍として語られることが多いかもしれない。しかし、政策を見れば詳細には触れないが慶応の改革を行い激動の時代の中で現実的な手を次々に打っている。また、朝廷内でも将軍後継職時代から薩摩藩などの勢力を排除するなど手腕を発揮している。そのような慶喜の人物像についてここでは大政奉還とその後の幕府勢力が完全に敗北していった大きな原因だと思われる慶喜の一面に絞って考えてみる。

 慶喜の唯一弱点になってしまった一面は天皇に対して弱かったことではないだろうか。弱かったという表現は少々雑かもしれないが、リアリストである慶喜が唯一現実を直視して判断を下すことができなかったのが天皇が関わった政局ではないかと考えている。その代表例としては王政復古の際ではないだろうか。王政復古のクーデターの際、慶喜は御所の門を固める薩摩を中心とした藩兵と戦うことなく大坂へと引き上げている。これには経済的拠点である大坂を確保するという意図があったことも間違いではないだろう。しかし、越前藩から事前にクーデターがおこるとの情報が入っていたにも関わらず静観した上で大阪に引き上げた慶喜の行動には疑問が残る。これを考察するに、天皇がいる都を血で汚すわけにはいかないという慶喜の天皇に対する意識があったと思われる。加えてリアリストである慶喜が唯一政治利用する発想を持てなかったのが朝廷であり、天皇だったのではなかろうか。倒幕を目指す諸藩が朝廷を利用していく中で慶喜はそれができなかったしその発想がなかった。中下級武士であった西郷や大久保など倒幕派の志士と将軍職に成り得る家柄に生まれた慶喜とで天皇に対する考え方、関わり方に差異が生じることは致し方のないことだと思えるが、この一点が慶喜や幕府方についた勢力に敗北をもたらしたきっかけになったと考えられる。そして鳥羽・伏見の戦いにおいて錦の御旗が掲げられ朝敵になると直ぐに大坂城を指揮官自ら単身で脱出したことは天皇や朝廷を重んじる唯一の慶喜の弱点を象徴しているのではないだろうか。

 おわりに

 大政奉還を考えたとき関わりのある人物は多くいた。しかし物語や美談などではなく歴史をとらえてみようと考えたとき、英雄とされ本来の人物像が見えにくい坂本龍馬と大政奉還の最終決定権を握っていた徳川慶喜。この二人の人物について考えていく事で今までとは違った見方が出来るのではないかと思い今回は取り上げてみた。藩や考え方が近い人物を一括りにして単純化して考えてしまうのではなく、しがらみや利害関係など多くの事柄がかみ合ったうえで政局が動いたということしっかりと確認できたのではないかと考えている。その上で大政奉還によって国内の内乱が小規模で済んだということも記しておきたい。戊辰戦争があったものの時代変化の大きさから言えば内乱の大きさは小さかったといえるだろう。大政奉還後に起きた政変から混乱はあった。しかしながら、幕府勢力のすべてが集結し大政奉還が行われない状況下で倒幕派との内乱が起きていたら今日の日本はないかもしれない。そうしたことを考えたとき大政奉還の歴史的意義はかなり大きいといえるであろう。

参考文献

家近良樹『徳川慶喜』吉川弘文館

知野文哉『「坂本龍馬」の誕生:船中八策と坂崎紫瀾』人文書院

高村直助『小松帯刀』吉川弘文館

 

徳川慶喜 (人物叢書)

徳川慶喜 (人物叢書)

 

 

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾

「坂本龍馬」の誕生: 船中八策と坂崎紫瀾

 

 

小松帯刀 (人物叢書)

小松帯刀 (人物叢書)